牛込払方町教会の「創世記を学ぶ会」のまとめです

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創世記には何が書かれているのか

第2回 人間の創造と堕落 ―「あなたはどこにいるのか」

創世記は、世界の始まりだけでなく、「人間とは何か」「なぜ人間には罪や苦しみがあるのか」という問いについても語っています。

第2回では、創世記2~3章を取り上げ、人間がどのような存在として造られたのか、そして神との関係がどのように壊れたのかを考えます。

人間は神から命を与えられた

創世記2章には、神が「土の塵」で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられたと記されています。

人間は「土の塵」にすぎない存在でありながら、神から命を与えられて生きる者となりました。人間の命は、自分自身から生まれるものではなく、神から与えられたものなのです。

また神は、人間を自由な存在として造られました。エデンの園では、「園のすべての木から取って食べなさい」という大きな自由が与えられる一方、「善悪の知識の木からは食べてはならない」という一つの戒めが与えられます。

神は人間を、自動的に神に従う存在ではなく、自由の中で神を信頼し、神と共に生きる存在として造られたのです。

「人が独りでいるのは良くない」

神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われました。

「彼に合う助ける者」とは、単なる補助者という意味ではなく、「彼に向かい合う者」という意味を持っています。人間は独りで完結するのではなく、他者と向かい合い、共に生きる存在として造られました。

女性が男性の「あばら骨」から造られたという物語も、男女の優劣ではなく、二人が同じ人間として互いに向かい合う存在であることを表しています。

「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」という言葉には、真のパートナーに出会った人間の喜びが表されています。

聖書が描く結婚の中心にあるのも、単に子孫を残すことではありません。二人が互いに向かい合い、共に生きる関係を結ぶことにあります。

罪とは何か

ところが創世記3章で、この関係が壊れ始めます。

蛇は人間に、神の言葉を疑わせ、「神のようになれる」と誘惑します。そして人間は、神から与えられた戒めを破り、善悪の知識の木の実を食べます。

聖書がここで描いている罪とは、単に規則を破ることではありません。神に信頼して生きることをやめ、神から離れて、自分自身が主人となって生きようとすることです。

神から自由になろうとした人間は、かえって自由を失っていきます。

それまで裸であっても恥ずかしくなかった二人は、自分を隠すようになります。神の足音を聞くと、神の顔を避けて隠れます。そして神から問いかけられると、男は女に、女は蛇に責任を転嫁します。

神との関係が壊れると、自分自身を隠し、人との関係も壊れていく。創世記3章は、私たち自身にも通じる人間の姿を描いています。

「あなたはどこにいるのか」

しかし、人間が神から隠れても、神は人間を見捨てられませんでした。

神は人間に、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられます。

これは単に、人間がどこに隠れているのかを尋ねる言葉ではありません。神から離れてしまった人間を探し求める神の呼びかけです。

私たちはしばしば、「神はどこにいるのか」と問います。しかし創世記が語るのは、その前に神の方が私たちに「あなたはどこにいるのか」と問いかけておられるということです。

罪を犯した人間を神は見捨てず、なお呼びかけ、関係を回復しようとされるのです。

罪の中にも与えられた希望

さらに神は、蛇に対して、「女の子孫」がその頭を砕くと語られます。

キリスト教会は古くから、この言葉の中に、罪と悪の力に対する神の救いの約束を読み取ってきました。人間が神から離れたその時から、神はすでに人間を救いへと導き始めておられるのです。

創世記2~3章は、人間の弱さや罪を厳しく描いています。しかし、それだけで終わりません。

人間は神から命を与えられ、他者と共に生きる者として造られました。人間は神から離れ、その関係を壊してしまいました。それでも神は、「あなたはどこにいるのか」と人間を探し求め、救いへと招き続けておられます。

創世記が語る人間の物語は、罪によって神から離れてしまった人間を、それでもなお見捨てることのない神の物語でもあるのです。